一石百観音像

11011503武田八幡神社のすぐ前にありました。
高さ、幅とも1.7mの三角形の安山岩です。
西国三十三番、東国三十三番、秩父三十四番、合計百体の観音像が掘られています。



元は、ここから500mほど北の玉保寺で宝永6年(1709年)に造られたものだそうです。
「百観音」の文字塔はあちこちで見られるが、百体の像を彫ったものは大変珍しいそうです。
「玉保寺が廃寺となったので、明治17年(1884年)に武田八幡神社の神宮寺跡地に移され、更に現地に動座された」と説明板にありました。
説明板には書かれていませんが、時代的に見て、明治政府の「神仏分離令」に端を発した「廃仏毀釈」運動に巻き込まれて(破壊を逃れるため)の移動と考えられます。

古来、日本は八百万の神々という多神教の国であり、仏教が伝来してからも、神社の境内に観音像を建てたり、寺院の敷地に氏神の祠を祭ったりという事は普通に行われていたわけです。
神仏習合」または「神仏混淆」と言いますが、宗教上の厳密な教義はともかく、如何にも日本的な、あらゆるものを吸収して自国のものとしていく姿で、素晴らしい文化であったと思います。

明治政府が、天皇家の祖先とされる天照大御神を頂点とする国家神道を利用するため「神仏分離令」を出し、それに乗った地方の神官や国学者が民衆を扇動し、各地の寺院や仏具の破壊(廃仏毀釈)が行なわれたのです。
数千の寺が廃寺に追い込まれ、数万に及ぶ仏像や建築物が破壊されました。
中国で孔子廟や儒教施設、仏教施設、文化財、美術品などを破壊した紅衛兵、バーミヤンの磨崖仏を破壊したタリバン・・貴重な史跡や芸術文化遺産を破壊するという愚かな行為が日本でも行われたことがあるんです。