歩兵訓練ノ為第二〇九鈴木隊四班ニ入隊ス
・・と、写真の裏に父の筆跡で書かれています。
父がシャッターを押したので、この写真に父は居ないと聞いています。
訓練期間の後、父だけがハルピン陸軍病院勤務として原隊に残り、この写真に写っている若者たちは全員が遠隔地の野戦病院、または満州ソ連国境警備部隊の衛生兵として配属されていったそうです。
また、彼らのその後の消息は全く不明ということです。
8月9日のソ連軍侵攻以後の話は皆さんがご存知のことと思います。
父は、満州で終戦を迎えた後、病院勤務だったこともあり、何とか引き上げてくることができましたが、自分の写っていない写真を大切に保存していた気持ちはよく分かります。
その父も7年前に亡くなりました。
実際に戦争を体験した人はどんどん少なくなっています。
人々が忘れた頃、歴史は繰り返すといいます。
今はその記憶を絶やさない事を考えなければなりません。
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お父さんの想いが詰まった
お父さんの写っていない写真。
ここに写っている人も高齢になっているだろうから
このブログを見て連絡をしてくるという事は無いだろうけれど、
どこかで生きていてくれたらと考えてしまう。
その人の想いとか気持ちとか、
そういう物を心の中に仕舞ったまま人は死んでいくんだろうな。
今日墓参りに行ってきました。
亡くなった父とは、
もっと大人の会話をしてみたかったと
今はとても思います。
flipperさん、いらっしゃい。
当時の満州では、8月15日の玉音放送以後もソ連軍が攻撃してくるので、それに対抗する戦闘を
継続していたそうです。
それが停戦協定違反だと連合国側から突き上げられ、大本営は直ちに戦闘を停止し、武装解除に
応じるよう命令を出したそうですが、白旗を掲げてもそれを無視して攻撃してくるソ連軍の前に、
民間人も含め、為す術もなく全滅していった部隊が多かったとか。
戦闘で亡くなっていなかったとしても87才ですから、健在である可能性は非常に低いですね。
父からは戦争中の話を随分聞きました。
陸軍病院の連隊長がとても良い人で、入院患者の引き上げを最優先し、本部からの命令を待たず、
独自に引き上げを開始したことで、私の父も助かったと聞いています。
独断引き上げを参謀本部に通知だけはしておくため、私の父に連絡を命じます。
ですが、父が参謀本部に行くと、既に参謀本部はもぬけのからだったとか。
まあ、色々です。