清水ブリキ店の話

大正時代の中頃、甲府市鍛冶町にこんな店が開店しました。
清水ブリキ店。写真は開店大売り出しの記念写真です。
私の父方の祖父が始めた店で、中央で子供を抱いているのが祖父、その右が祖母です。
祖母の前にいるのが長女である伯母、祖父が抱いているのが次女の伯母。この後、長男である伯父、次男である私の父が生まれるわけです。
写真には祝いに駆けつけた親類縁者と、祖父が雇っていた人たちも端の方に写っています。
祖父は戦争中に亡くなったので私は会ったことがありませんが、祖母は長生きで私がペンションを始めた頃はまだ存命でした。


何年かは不明ですが、清水ブリキ店の前の道路が舗装され、その時の記念写真がありました。
写真に祖父は写っていませんが、曽祖父と思われる人物が居ます。
江戸時代末期の生まれで長坂の農家の次男だったと聞きました。麦飯を食うのが嫌で甲府で一旗揚げようと家を飛び出したとか。


清水ブリキ店は、ただ品物を仕入れて売るだけではなく、多くの商品を自店で製造していたようです。
これは商工会館かどこかで開催された見本市のようなイベントに出展したときの写真だと思われます。


このような金属叩き出しの看板も造っていたようです。
これはどこかの神社にでも奉納するために、甲府に今もある「魚そう」という寿司店から注文を受けたのでしょう。


こちらは商店の軒に掲げる大看板です。
「金精軒本店」・・そうです。白州にある和菓子の老舗ですね。
まさか金精軒の看板を祖父が造っていたとは思いもしませんでした。


これは昭和に入ってからの写真だと思いますが、医療用の沸騰器だと思います。
当初のバケツやヤカン、大型看板、そして医療機器まで手がけていたのです。
そんなわけで、高等小学校を卒業した父が、東京の医療機器の製造会社に住み込みの職人見習いとして上京したわけです。
昭和19年に招集を受け満州へ出征した父が、陸軍病院勤務となり前線部隊に送られなかったのは、東京で身につけた医療機器製造の技術が評価されたためでしょう。


写真と一緒に、こんな銘板の手描きのデザイン図が出てきました。
これは多分、私の祖父が描いたものだと思います。
医療機器の製造までするようになった、祖父の清水ブリキ店も清水製作所と名を改め自前の製品を手がけるまでになろうとしていたのでしょう。
残念なことに、祖父と伯父の相次ぐ死で、それはできなくなってしまったのです。(父は招集を受け入隊が決まっていたので)

祖母と父の妹たち(3人)は、嫁いでいた長女のところで来いと言ってくれて、群馬県太田市へ越しました。
店の土地建物は親類に預かってもらっていたのですが、後の甲府の空襲で綺麗サッパリ無くなってしまいました。

終戦記念日に、父が満州から持ち帰った写真を見ていたのですが、同時にこのような写真も出てきたので、改めて私の知っている範囲のことを書いてみました。