昭和20年・父の写真

12081504毎年この時期になると父の話を思い出します。
大正13年(1924年)生まれの父は、終戦の前年に徴兵されました。
昭和20年(1945年)3月に、満州のハルピン陸軍病院要員として配属されています。



写真の父は21歳。今年は私の息子が同じ年になりました。
父にとって、病院勤務だったことは幸いでした。
毎日のように瀕死の負傷兵が運び込まれ、多くの人が亡くなるのを目の当たりにはしましたが、自分が前線に出ることは一度もなく済んだという事です。

満州では、8月15日の玉音放送以後もソ連軍の攻撃があり、自衛のための対抗戦闘を継続していました。
それが停戦協定違反と連合国側から突き上げられ、大本営は戦闘停止と武装解除命令厳守を通達します。
ソ連国境に近い地域では、白旗を掲げてもそれを無視して攻撃してくるソ連軍の前に、民間人も含め、為す術もなく壊滅していった部隊もあったとか。

陸軍病院連隊長の独断で、本部からの命令を待たずに入院患者の移送を最優先して病院全体の引き上げを開始したことで、私の父も助かったと聞いています。
独断引き上げとは言え参謀本部にだけは通知しておけと命じられ、父のいた小隊が参謀本部に行くと、既に参謀本部は我先に逃げ出した後で無人だったそうです。

父からは戦争中の話を色々と聞きました。
その父ももう8年前に亡くなり、徴兵従軍経験のある人は随分減っていることでしょう。
歴史を繰り返さない。特に戦争に対する認識を誤らないためにも、日本人としての戦争の記憶を語り継いで行かなければならないのだと思います。